ギフトオーサーシップという踏み絵

悩んでいる。


実利をとるのか

自分の信念をとるのかを

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ちょうど今の所属ラボでやった仕事が切りのいいところでまとまったので、論文化するという話になった。

もちろん僕は大歓迎で論文を書き進めているわけだが、先週コレスポのボスからとある打診(いや、実際は言外の強制力を伴う命令)を受けた。

「○○も、著者に加えるから」

それは、ちょっと前からラボの助教に就任した人物の名だった。
彼が着任した時には、データ取りはすべて終わっており、論文も僕が一人で書き進めている。
論文の構成を決める際には、ほかの著者(コレスポのボス他、同僚のPDや実験を手伝ってくれた院生ら)も参加しディスカッションを経てコンセンサスを取ったが、もちろんそのころ彼は着任前だ。
そしてほぼ間違いなく、彼は僕の書いている論文の50%ほども理解していない。

客観的に見ても、彼が著者の資格を持っていないことは明確だ。
それなのに著者に入れろという打診である。


これが、噂に聞く「ギフトオーサーシップの強制」というやつかと全身が熱くなった。
著者の資格がない人物が論文の著者欄に加わるいわゆる「ギフトオーサーシップ」は、「論文不正」の一種だ。倫理的に見て適当とはいいがたい行為だ。
(例えばエルゼビアのガイドラインでもギフトオーサーシップは明確に「倫理的に問題がある行為」とされている https://www.elsevier.com/__data/promis_misc/RESINV_Quick_guide_AUTH02_JPN_2015.pdf


もちろん、それが不正にも分類されかねない不適切な行為だとはやんわりと伝えたが、反ってきたのは僕を宥めるような詭弁と、「グダグダいうなら論文は出さなくてもいいんだぞ」という言外の雰囲気だった。
そのボスの親心というか、その助教のキャリア形成を思いやってのことだろうと思う。そこまでは百歩譲ってわからないでもないが、驚いたことにその○○自身が著者に入ることを望んでいるという。

にわかに信じられたなかった僕は、○○に直接確認したが、実際にそう思っているとのことだった。しかもあろうことか「内容はよくわからないけど、君がやった仕事なら間違いないだろ!ひとつよろしく頼むね」と自分自身が内容を理解していないことすらあっけらかんと話すではないか。

明文化されたルール違反であるばかりでなく、直感的に、直情的に考えて、なんの貢献もなく、労せずして著者欄に列席することをよしとする神経は一体どうなっているのだろうか?恥知らずという言葉は知ってはいれど、口にまで出かかったのは初の体験だった。だが結局、予想外の返答に文字通り二の句が継げなかった。僕はただただぽかんと阿呆みたいに立ち尽くすのみだった。


僕なら、自分の貢献が十分でないと感じれば改稿や追加のデータ取得には人一倍コミットする。そしてその余地がない、技術がない、知識がないなら間違いなく共著になるのは辞退する。
そりゃもちろん、共著であろうと業績は増やしたい。それがまさにキャリアを進めていくのにプラスに働くからだ。だが同時に、ギフトとして著者に加えられたところで、やはり良心は痛むし、「十分に貢献した」と確固たる自信をもって著者に入れてもらった論文すら色眼鏡で見られるのは辛い。
そして、もっと直情的に言えば単純に釈然としない。


僕はこれまで、どんなに業績面で苦労しようとも、科学にだけは真摯に向き合おう、清廉潔白であろうと努めてきたし、そこには小さいながらも誇りを持っていた。もちろんオーサーシップに対してもフェアにやってきた。
だから僕は、自身の名前が載った論文に対して、なんら後ろめたいこと、後ろ暗いところはないと自信をもって言い切れる。


それが、ついに今、ギフトオーサーシップという「不正」の片棒を担がされようとしている。僕がどんなに心情的にいやだと思っても、その人物が著者に加わった論文とが出版されてしまえば、同じく著者の一人である僕自身もそれに同意したと同じことだ。



「よく行われていること」「ささいなこと」「そうすれば丸く収まるんだから」

そう思う人がいるのはよくわかる。
だが、どんなに小さかろうと、科学の世界において誤ったことは誤ったことだ。いうまでもなく信用にかかわる。
些細な事、小さいこと、ちょっとまずいこと、見過ごすのは難しいこと、明らかにやばいこと、完全な悪意のもとに行われる不正、それらは連続的なものだ。最初の小さな一歩ですら、踏み出してはいけないという教育を僕は受けてきた。



この仕事は、僕が中心となって2年間をかけた仕事だ。2年ぶりに出す筆頭論文となるはずだ。
これで筆頭論文を書けなくなってしまうと本当に痛い。それだけは避けたい。
だが、それと引き換えでこれまで貫き等してきた信念を折っていいものか、あとで振り返ったときに心に暗い影を作ってしまうことを良しとしてしまうのか。
なにより「不正」とカテゴライズされる行為を行ってしまうのか。

それで僕は喜ぶのか。5年後、10年後に振り返って悔悟の念に駆られはしないか。




踏み絵だ。このギフトオーサーシップは踏み絵だ。