そんなに「グローバルリーダー」は必要か?

ここ数年、アカデミックの世界(というか大学をはじめとする研究組織)にいると頻繁に目にするようになった単語に「グローバルリーダー」がある。

要は、世界で活躍できる組織牽引型の人材のことなのだろうが、最近はどこの大学も金太郎飴がごとくこの単語を連呼している。特に顕著なのは各大学の大学院プログラムだろう。最近はどの大学院でも「先進的」だの「革新的」だの「卓越した」だの、カッチョイイ言葉が並ぶパンフレットを作成し、「グローバルリーダー」の輩出を目指している。

僕の頭が少々古いのか、ややヒネクレタ性格だからか、はたまた単に視野が狭いからそう見えてしまうのかもしれないが、大学院の教育を少々変えたからと言って、簡単に「グローバルリーダー」とやらが育つとは到底思えないのである。

理系に限られるのかもしれないが、やはりなんといっても大学院(特に博士課程)においてもっとも身に着けるべきは「高度な専門技術・専門知識に裏打ちされた確かな研究能力」だろうと僕は考えているし、これがあればいわゆる「世界に通用する人材」としてやっていけるだろう。なぜなら、「高度な専門技術・専門知識に裏打ちされた確かな研究能力」は(少なくともアカデミックであれば)世界どこに行っても通用するスキルであり、かつ、そんなにありふれた能力ではない。

逆に言えば、英語がペラペラでも専門技術も専門知識もなければそんな人材はアメリカの大学一年生となんら変わらない。いくらネイティブスピーカーでも、学術論文をしっかり読める人は(科学の読み書き)トレーニングを受けた人に限られるのだ。

だから手っ取り早く「グローバルな人材」を輩出しようと思うなら、院生の研究環境を整備し、「高度な専門技術・専門知識に裏打ちされた確かな研究能力」を身に着けることに集中できるようにするのが一番なのではないだろうか。

また、僕がもう一つ思うのは育成した人材が「リーダー」である必要ははてしてあるのだろうか?良く言われることであるが、ホームランバッターばかり9人並べても上手くいかないことは一昔前の某球団が示してくれた教訓である。もちろん組織にリーダーは必要だが、それと同時に数多くの補佐役や実働部隊もまた必要である。適性も志望も様々な大学院生達を十把一からげにして「リーダー」への育成を目指すのは直感的に難しい様な気がするのだ。





…まぁ、こういう考え方がすでに「グローバル」ではないかのもしれないが…。