「意見をされる」、という幸せ

院生・PDの頃は、研究室に「上司」が存在する。
この頃、上司に叱られたり諌められた経験のある研究者は多いはずだ。
良識的な上司の下に付いたならば、こういった諫言・叱責の類はそのときこそ苦けれど、後にそれを良薬として噛み締めるときが来るものである。

ところが、自分が PI になるとなかなか「叱責」されることは少なくなる。
かつての恩師は遠く離れ(あるいは既に一線を退いているかもしれない)、同僚はわざわざ関係を拗らせる可能性を犯してあなたを叱ったり、苦言を呈することを躊躇うだろう。

PIになった時点で、完全な人間などいない。時には誤りも犯すだろうし、考え直すべきこともあるはずである。
そうなったとき、自分の軌道修正をしてくれる物の1つに、目下の者、つまり自分が雇っているPDや院生からのフィードバックがある。


院生・PDが上司であるPIに意見するのは難しい、過去のエントリーでも述べたように、PIは彼らの命運(学位・雇用)を握る圧倒的上位者なのだ。

だからこそ、「院生・PDがPIに意見することが出来る環境」というのは、PIが彼らから「この人は、理不尽に自分の権力を行使したりしない」と信頼されていなければ生まれない。「先生、それはないっすよ」と学生に直接言われることは、自分が築いたその信頼関係・ラボの雰囲気、その他諸々の結果であって、胸を張って誇っていいことなのだと僕は考える。


それを、院生からの意見を「反抗」だとでも思っているのか知らないが、ちょっと反論されたら激昂し、「学生の分際で」と貶め、時に別の学生にまで八つ当たりをする。そんなPIに、わざわざリスクを犯して諫言を呈するPD・院生など存在するはずもない。


現在、「老害」などと揶揄され疎まれるPIを誰もが1人や2人は知っているだろう。
逆に、未だに多くのOB・院生に囲まれ明るく定年を向かえつつある大御所も知っているはずだ。

彼らの違いはどこにあるか。



僕は、「教え子達にちゃんと意見され、自分を省みることができる」か否か、ではないかと思っている。