ランナーを出してもホームに還さないと意味がない

基本的に実験生物学の世界では、データがなければ論文は書けない。
いや、生命科学に限らず、実験ベースの分野ならどこでもだいたい一緒だろう。総説やプロポーザル論文以外の原著論文は、普通何らかの実験データを含んでいるものである。

だからこそPDは朝から晩まで実験に明け暮れ、データを出すことに心血を注ぎ、それを至上の喜びとしている。ところが、一定の数の研究者がはまってしまう落とし穴が存在する、それが「データを論文にしない」というものである。
いいデータを出し、学会発表もした。聴衆の反応も上々で、成果は十分。あとは論文としてまとめるだけ。・・・しかし、この段階で歩みを止めてしまう研究者は一定割合で存在する。いわゆる「実験は出来るけど論文は書けない」というタイプの研究者である。

これは言うまでもなく非常に勿体無い。「データが出た」と言うのは、野球に喩えるなら「ランナーが出た」に過ぎない。論文を出すというのは、このランナーをホームに還す作業である。いうまでもなく、無死満塁のチャンスを作っても、ホームに還せなければ、その回の得点はゼロ。結果としては三者凡退と変わらないスコアである。

得点力が高いチーム(研究能力が高い研究者)に必要なのは、チャンスメイクする良い1,2 番(データを出す実験能力)と、確実にタイムリーが打てるクリンナップ(論文を出版できるの執筆力)だ。また、四球だろうと振り逃げだろうと(イマイチなデータであろうと)、出たランナーをバントで送って(地味な補足データを加えて)、犠牲フライで確実に1点を挙げれる(論文としてまとめられる)しぶとさを持つチームはいうまでもなく強い。

「あのデータ、論文にしないとな〜」といつまでも口先で言っているばかりの残塁王研究者は、ランナーを確実にホームに還せる研究者に絶対勝てない。
「出たデータを確実に速やかに論文にできる」というのは、得点圏打率10割のバッターを抱えているようなもの。そんなチームには絶対に勝てない。
わかってんのか(注: 自分に言っています)

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これとはまた別の問題として。

「ビッグイニングでなければ無意味」という野球の監督は存在しないが、「ビッグジャーナル以外の論文なんてカス」という方針の研究室は存在する。僕の分野だと、そういうラボの方が多いかもしれない。

しかし、僕はこのスタンスが好きではない。そりゃ、出来ることならビッグジャーナルに載るハイインパクト論文だけを出したい。だが、知っての通り、研究には一定割合の「運」の要素が介在する。適切に努力したって、全員が全員ビッグジャーナルに載せられる成果を得られる保証はどこにもないのだ。「ビッグジャーナル至上主義」に縛られるあまり、不幸な結末を迎えた院生やPDは五指に余るほど見てきた。

研究者にとって重要なのは、まずは最少得点でもいいから、得点を挙げることだ。
ビッグイニングなんてものはその延長にあるものだと思う。



だからまず、○○イニング振りの得点挙げようよ、俺。

正しくやっている人は、正しく評価される。

先日、京都大学白眉センターの公募結果発表があった。

以前このブログでも言及したバッタ博士こと前野博士が採用されている。
オンリーワンPDである彼が、こうして評価され、収入も地位もある職につくのを見ると、まだまだこの国のアカデミアは「正しくやっている人を正しく評価する」ことが出来るのだな、と安心する。

時をほぼ同じくして、この時期恒例の学振発表もあった。
僕のところにも、申請書を添削させていただいた後輩や(元)同僚達から結果報告がちらほら寄せられた。やはり、ここでも受かるべく人は受かり、そうでない人はまた来年へと回されている印象である。回りの研究室を見渡しても、大方傾向は同じだ。


PD暮らしが長くなれば、色々と業界の良くない面を目にする機会は多くなる。
業績も人柄も申し分ない人物が、常に評価される訳ではないことも残念ながら知ってしまった。

しかし、だからと言ってそうそう捨てたものではない。
ちゃんと業績を積み、真摯に研究を行っている人間を評価してくれるところは依然として沢山あるし、もちろん多数派である(と信じたい)。学振なんてその最たる例だ。白眉の結果だって各々の分野人からすれば当然の結果なのだろう。


公募に落ちるたび、学振に「不採用」を突きつけられるたびに、「やっぱりコネが〜」「やっぱり出身校が〜」「審査員が理解できなかったから〜」などと、何か別のもののせいにして嘆きたくなる気持ちもわかる。「学振通らない方が自由でよい」などと、強がってみたい気持ちもわかる。

だが、あなたがそう言っている間に、業績を上積みし、申請書を練り直している、競争相手がいることも忘れてはならない。結果から目をそむけたりせず、やるべきことを真面目にやろう。





・・・そう、すべて自分に言っている。
(久々に面接まで進んだ公募で敗れた2013年秋)

ダメな同僚

学会シーズンということもあり3ヶ月も空いてしまった。

先日学会で久しぶりにかつての同僚だったPDを見かけた。
少しばかり思い出すところがあったので、その話をしようかと思う。

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彼と同じラボで仕事をしたのは数年前の1年間ほど。
ラボからPDの急募が出たときに応募してきたのが彼だった。
人当たりは悪くなく、一通り専門技術は身に付けている。業績欄こそやや寂しい印象があったものの、当時のボスはそれほど悩むことなく彼を採用し、中規模のプロジェクトを彼に任せた。

だが、ラボに在籍していた1年間、彼はほとんどデータを出さなかった。実験作業自体は(熱心とは言いがたいが)やっているものの、研究の目的を理解していないのは明白で、全くの見当違いなことを繰り返してはサンプルも試薬も無駄に浪費していた。ボスはしばらくは彼の能力の低さに気付いていなかったが、定期報告会で彼が全く意味のあるデータを出していないことに気付くと、定期的に彼とミーティングを持ち、なんとか真っ当に仕事をするよう促した。

担当プロジェクトが別ということもあり、さして親しくしていたわけではないが、時には彼と飯を食いに行く機会もあった。幾度となく、それとはなしにもっと目的に向かってデータを取ったほうがいい、ネットサーフィンばかりしてないでもっと実験した方がいい、とは言うものの、そういう話題になると彼は決まって不機嫌になり、いずれアカデミアから去るからいいんだと言い訳がましく話を閉めた。

結局彼はなんら変わることなく、その後もラボでネットサーフィンに興じる傍ら、時折なんら意味のないデータを出す日々を続けていた。翌年、予想通り契約更改されることなく彼はクビになりラボを去った。

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「いずれアカデミアを去る」と言いながら、未だに学会に出ているということは、まだどこかでPDをやっているのだろう。あれから数年、すでに30も半ばを過ぎようかという年齢になり、民間就職も公務員試験もほとんど不可能だろう。もはや、彼が「アカデミアから去る」というのは無職フリーターになると同義である。

一緒に仕事をしていたとき、彼は厳しいことを言われるのを嫌い、苦言を呈されても考えを改める様子もなかったので自業自得といえばそれまでではあるが、あのような"ダメ"な同僚にはどう接するのが正解だったのだろうか、将来PIになったときに彼のようなハズレPDを引いたときにどうすれば良いのだろうか、と考えることはある。

皆さんは、そういう時どうしているのだろうか?
やはり放っておくのが最善なんだろうか。



余談だが、彼の後任のPDは、彼が1年かけて出したのとほぼ同じ量のデータを着任後1ヶ月も掛からずに出し、あっという間にそのプロジェクトは論文となり出版された。この経験が相当効いたようで、以降当時のボスはPDの雇用には非常に慎重になり、その後は次々に "当たりPD" を引き当て、業績を稼いでいる。

ブラック研究室の条件とは?

ブラック企業大賞とやらに東北大学がエントリーされたと話題になっているようだ。
http://blackcorpaward.blogspot.com/

ウェブ上に実際のOBの方の文章も見つけた。是非一読していただきたい。
http://anond.hatelabo.jp/20130705220752

"しかし、そのブラック研究室の労働環境は想像を絶する。土日も来るのは当たり前、深夜12時を回っても帰る学生がいない。つまり、週七日フルで働くわけだ。" (先のブログ記事より引用)

今回は話題のブラック研究室に付いて、、、



やはり、ブラック研究室の特徴として上げられるのは「労働時間の長さ」だろう。
記事で述べられている週七フルタイムの激烈な労働環境は、時折耳にする話である。

ただ、ハードワークそれ自体には、理系で院に進んだ人であれば、ある程度慣れ親しんだものかもしれない。この記事のラボほどではないかもしれないが、多かれ少なかれ、日本の数多のラボでは、院生を昼夜「働かせている」。

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院生とは、日本社会の「タダ働きエリート」と言っても過言ではない。
どんなブラック企業だろうと、労働者が完全に無給という企業はそうそうないだろう。ところが、院生はタダ働きどころか、使役者側に年間数十万に及ぶ授業料を納めてすらいるのだ。

もちろん、彼らは研究室において「教育を受けている」。
実際に研究活動を行うのは、「研究」を学ぶ上で何よりの教育であることに疑いの余地は無い。

ところがである、彼らは教育を受けているだけではなく、研究活動に貢献もしている。
この「貢献の有無」は高校生や学部生などの他の学生とは根本的に異なる。

日本の研究機関(特に大学)から発表される年間10万本に及ぶ論文の多くは、院生の働きに支えられていると言っても過言ではない(もちろんPDに支えられる部分も大きいが、彼らは一応給料という「対価」を得ている)。
もし、日本から院生が全て消えてしまったら、発表論文数は激減するだろうし、多くのラボは再起不能にすら陥るかもしれない。地方国立大はもとより、旧帝クラスでも、研究室の主力は「修士・博士の院生」という研究室は決して珍しくない。いや、むしろ多数派ではないかとすら思われる。

そう、本来ならば院生は給料をもらっても良いくらいの立場である。
(事実、アメリカの大学では多くの院生は給料をもらっている。出所は多様で外部フェローシップの他、大学、学科、そしてもちろんPIの研究費のこともある)。

だから、そもそも事実(給料の有無/貢献の有無) だけを見れば「日本の大学院生」と言うのはとんでもないブラック職なのである。


とはいえ、多くの院生は充実した研究生活を送っているのも事実。そして、その貢献度にはこれまた大きな個人差が存在するため、一律に「貢献しているから給料だせ」と言うことは出来ない。
今の日本のシステムで、全ての院生に給料を出せと言うのもまた無理な話である(理想的には、選抜を強化して有給化すべきだとは思うが)。

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ついつい、つらつらと書き連ねてしまって肝心の「ブラック研究室」まで話が到達しなかった。これに付いてはまた後日に後編を、としたい。

なお一言だけいうならば、個人的に研究室がブラックかそうでないかを分けるのは「罵倒の有無」だと思っている。

労働時間の有無が絶対的な条件ではない。
もう一度言う、院生の心を、人格を、将来を、人生を、壊すのは「罵倒」だと思っている。

オンリーワンPD

ネット上でいくつか贔屓にさせていただいているブログがある。
その中のひとつ、「砂漠のリアルムシキング」について書いてみたい。
Web上では有名な方のようだが、このブログの筆者もまたPD(ポスドク)である。

僕と分野は違えど、置かれている社会的地位はさして変わらない。
僕も彼もPD。不安定な任期職である。
(もっとも、研究業績を拝見する限り、彼の業績&経歴は僕なんかよりもずっと優れているが。)

だが、僕と(そして日本中に数多存在する僕のようなPD達と)彼との間には決定的な差が存在する。

「代わりがいる」か「代わりがいない」か、だ。

僕程度の汎用型PDは日本中にごまんといる。彼と同等、もしくは彼を凌ぐ業績を持つPDだって少なからぬ数がいるだろう。

しかし、アフリカの砂漠で害虫研究に身を捧げようと言うPDは一体何人いるだろうか?
平穏な日本での暮らし、その業績があれば十分手に入るであろう安定したポジション、そういったものを打ち捨て、言語も文化も生活水準も異なり、命の危険すらあるような異国で研究を志すPDが他にいるだろうか?

誰が進んでそんなところに行くものか。
あたりまえだ。アメリカだのヨーロッパだのに行くのとは訳が違うんだ。
例え、高い志があっても、現実的な問題の前に二の足を踏むことを誰が責めれようか?

害虫として名高いにも関わらず、このバッタ防除の研究が長いこと進んでいないと言うのも頷ける。


「誰もが望んでいるはずなのに、誰も手を付けない」

そこに単身切り込める彼は間違いなく「代わりがいないPD」である。




だが、そんな彼は今年から無給PDになるようだ。
http://d.hatena.ne.jp/otokomaeno/20130322/1363940379

きっと彼は最初からそうなる覚悟をもってアフリカに渡ったのだろう。




自分を含め多くのPDは、国から出る研究費(つまり大元を辿ると税金)で雇われているわけだが、本当は彼のようなPDこそ国に支援されるべきだ。

残念ながら僕に、「俺の給料を使ってくれ!」と言えるだけの男気は存在しない。
しかし、少しでも支援になれば、と思い、先日、氏の著書を買わせていただいた。

少々門外漢には辛いところもあったが、氏の強い想いは伝わってくる。

氏の置かれた状況が少しでも良くなることを願ってやまない。

学振の添削に関する所感

学振申請のこの季節。
今でこそしがないPDをやっている僕も、かつては各種学振の恩恵に預かっていたこともある。申請書作成にはそこそこのノウハウを持っている。
(逆に今こうやってパッとしないPDをやっているという事は、僕にあったのはノウハウだけで実力ではなかった、という証左にもなりうる。いや、むしろそうだろう。あぁ。)

毎年1-2人から添削を頼まれる。
同分野の同僚に聞くところによると、同じラボでもないのに添削を依頼されるなんて珍しいそうだ。何がその理由かは分からないが、その1つは恐らく、決してプライドも気持ちも傷つけることがないやわらかい言葉で添削するからだろう(僕は、激しい言葉で罵倒のような添削するスタイルをとる人間にはなりたくないと思っている。キツい言葉の怖さを知っているからだ)。

学振書類に限らず、何かを添削する際に気をつけていることがあるのでちょっと書き連ねてみようと思う。

1.必ず「褒める」

さすがにDC1の申請書草稿などでは、いわゆる「まっかっか」状態にせざるを得ないこともある。しかし、すべてがどうしようもなく救いようのない申請書というのもまた滅多に存在しない。そのため、添削コメントには、必ず「ここは良い」「この説明はわかりやすい」「この図は効果的」などポジティブな言葉も並ぶ。「どこが悪いか」を指摘する事は重要だが、それと同じくらい「どこが良いか」を指摘する事は重要だと思っている。

2.罵倒するような言葉は絶対に使わない

ワードの変更履歴/コメントを削除せず送られてきた申請書ファイルは、他人のコメントを読む機会を与えてくれる。驚くべきことではないが、「バカ」だの「アホ」だのと言った言葉がコメント欄に並ぶファイルを目にすることもある。そういう言葉を書く人間は受け取り手がどういう心境でそれを読むのか想像しないのだろうか。口頭で行われる会話とは異なり、書かれた言葉は、いつ、どのような心境で読まれるかが分からないのだ。また、そのような罵倒が建設的な修正に寄与するとはとても思えない。

3.何故か、を説明する

「この文章は意味不明」というような添削文章は誰しもが目にしたことがあるはずだ。僕はこれにプラスして「何故意味不明なのか」を書き加えることにしている。「文章中の『この』が指す言葉がなんだか分からないため、2通りの意味に取れる」とか「逆接に逆接が続いているため、どっちが自分の主張なのか分からない」とか「この主語に対する述語が存在しない」というように具体的な指摘をすることが多い。

これらは僕の自己満足に過ぎないのかもしれない。
僕が「こういう風に添削されたい」と思っているものを体現しようとしているに過ぎないかも知れない。

でも、「自分がされて嬉しいこと」を、関係性が薄い人間や、立場が低い者にも出来るというのは美徳であると信じているし、そういうPIになりたいものである。
(最もPIになれるかどうかは別問題である、、、が)

ラボのデスクにプライバシーはあるか

新年度となり、居室の平均年齢がガクっと下がる季節である。
1人、平均年齢を上げるだけの存在になってしまったわが身を省みつつ過ごす今日この頃。

先日、早速新しい院生が「デスクに私物を置いてもいいか」と尋ねて来た。
今日び、わざわざそんなことを尋ねてくるなんて珍しく礼儀正しい子である。

そこでふと思い出した昔話。

以前在籍したラボでは、「デスクはラボ/大学の備品であるから、私物を置くのは構わないがプライバシーはないものと思って欲しい」と明言されていた。
僕がそのラボに移動するはるか以前に、PIが無断で院生の机の上や引き出しの中を調べてトラブルになったことがあるらしい。PIはその院生に貸した本を探していたとのことだが、院生はプライバシーの侵害にもほどがあると烈火のごとくPIに食って掛かり、危うくハラスメントとして学内委員会に訴える事態に発展するところだったそうだ。幸い、PIが謝罪し、院生側にも落ち度がないわけでもなかったのでなんとか丸く収まったそうだが。
以降、PIも無断で個人のデスクに触る事は控えるようになったとは言え、万一に備えて上記のようなルールを作ったという事情のようだ。

よくよく調べてみると、やはりラボのデスクはPIの管理下にあるという考えが一般的なようで、無断で引き出しを開けるような行為も「管理上必要であれば」法律上は問題にならないケースが多いそうだ。
とはいえ、やはり他人の引き出しを無断で開けるなんて行為は信頼関係を損ねる危険もあるだろう。現にその院生はその後PIとの関係をこじらせ修了を待たずして民間就職へ舵を切ったそうだ。PIと院生間で最も重要なのは信頼関係。それを危うくするようなマネは控えよう。