外野は引っ込んでろ

小保方晴子さんの「STAP細胞論文捏造疑惑」 アンチ勢力の陰

今朝、この週刊誌記事を目にして怒りに震えた。

「“捏造疑惑”について調査中であることを表明したことから、鬼の首を取ったような小保方バッシングが巻き起こっている。だが、冷静に論文を精査すれば、ごく些細な問題でしかないことがわかる。」 (上記リンク先記事より)

いったい、どこの誰がこんなことを書いているのだろうか。
もちろん僕らの同業者ではないだろう。

いまだ調査中ではあるが、例のSTAP論文に大きな問題があることは疑いない。
ここでいう「大きな問題」とは、STAP細胞の追試が成功していないということではない(STAP細胞自体の科学的な評価は、完全な追試が独立に何度も行われるまでもう少し待つべきであると僕は考えている)。

問題なのは、著者らが「些細なミス」と言っている画像の使いまわし、バンドの改変疑惑の方である。例え論文の本筋に関係ないからといって、これらが不正が故意に行われたならば断じて許されるべきではない。論文の大筋があっているからといって、枝葉のデータでの不正は全く正当化されない。例えるなら、10億円慈善事業に寄付したんだから、そのお金貯めるためにした10万円分の万引きを見逃せと言っている様なもの。


「捏造・不正」は科学に対する裏切りである。




「ごく些細な問題」かどうかはこれから明らかになることだ。

ダメ、絶対

今月頭に世間の話題をさらったSTAP細胞が、早くも疑惑に揺れているようだ。
参考: 理研が調査を開始(毎日新聞)

僕個人としては、STAP細胞の作製自体が捏造ということはないだろうと思っている。
この分野の注目度と研究者の数を考えれば、すぐに数多の研究者がこの細胞に飛びつき、世界中のラボで追試がなされる。万一捏造だったとしたら、あっという間に捏造がバレるのは想像に難くない。さすがにそんなリスクは犯さないだろう。1つのラボ内で閉鎖的に行われる研究では、上司(つまりPI)からの圧力で捏造や不正を見てみぬ振りをせざるを得ないという状況は耳にすることもあるが、このSTAP細胞のようにラボをまたいだ共同研究ならその可能性も低いのではないだろうか。
現在、追試が成功しないと言われているが、やがて「うちでは出来てるよ」という声が聞かれるのではないかと思っている。経験のある方には言うまでもないことだと思うが、初めてやる実験はプロトコル通りにやってもなかなか上手く行かないものである。初めてやったウェスタンやノーザンで一発OKが出るほど綺麗なバンドを出せた例を僕は知らない。単純作業に見える細胞培養にだってマテメソに書かれない「コツ」は無数に存在する。すぐに追試が上手く行かないというのは予想の範囲内ではある。まだまだ判断を下すのは早いだろう。

しかし、しかしである。
同時に指摘されているバンドと写真の使いまわし疑惑はいただけない。この使い回しが事実であれば(そして指摘サイトの画像を見る限り僕には使い回しに見える)、それは紛れもない不正である。故意でやったのならば、例え論文の本筋は正しいとしても厳しい処分が下されるべきである。なお、全く異なる実験のバンド画像を別な論文のFigureに入れたことを「過失」というのはかなりの無理がある。まして写真の方の使い回しが事実ならば、明確な意思を持って加工しない限りこうはならない。いったいどういうことなのか、著者たちに説明責任があるだろう。

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ついでなので、この業界に暗い影を落とす「捏造」に付いて少しばかり思うところを書こうかと思う。

業界人には当たり前のことだと思うが、いわゆる「バンド」の捏造や不正操作は実は技術的には簡単に行うことが出来る。最も単純なのは画像編集ソフトでバンド写真の当該部位をコピーするというものである。反転やコントラスト調整、縦横比の変更もし放題である。論文用の図を作成する際に、画像編集ソフトを用いてバンド部分だけを切り取って並べるというのは極々普通の作業であり、論文のFigureを作ったことがある人なら誰しもがその技術を持っている。つまり、誰でも画像の切り貼りにより簡単に理想的なFigureを作ることは技術的に可能だ。もう少し手間をかけるなら、異なる量のPCR産物やタンパクを泳動することでサンプル間に発現量に差があるように装ったりすることも技術的にはなんら難しいことではない。写真のコピペは露見しやすいが、流すサンプルに細工がなされてしまうと見破るのはほとんど不可能だろう。
バンド以外のデータだって、サンプル数を水増ししたり、データの値を都合よく書き換えるというのはExcel上で値をいじるだけである。さらに悪質に行うなら、実験ノートに手書きで記録する段階で「脳内で理想的に」改変されたデータを書き込めばよい。顕微鏡下で細胞を数えるようなデータの場合、全てのデータに対して写真を撮らない場合もある。カウント数を記録する段階で悪意を持って改竄が行われた場合、他人どころか、共著者でもそれを見抜くのは困難を極めるだろう。

つまり、普通に研究遂行能力がある研究者(院生含む)にとって、実験データの捏造/改竄という不正は実は技術的には簡単に出来ることであるし、みんながそれを知っている。もちろん「簡単に出来るから」といって、ほとんどの研究者はそのような不正に手を染めたりはしない。研究者・科学者としての良心を守っている人がほとんどだ。

だが一方で、自分からそう遠くないところに存在する黒い噂を耳にした経験もあるだろうし、毎月のように捏造・データ改ざんのニュースが耳に入る。

だからこそ研究者は「信頼」が最も大事だと僕は思っている。「お前の取ったデータは信用できない」と言われるのは研究者にとってこれ以上ない侮辱だと僕は思うし、その原因が自分の行いにあるのなら実に嘆かわしいことだ。自分の口で「僕/私は捏造や改竄を行います」という研究者などいない。誰もが「そんなこと絶対にやりません」という。そんなとき、モノをいうのはその人の人柄や日頃の態度だ。研究関係ではもちろん、日常生活でもだ。嘘をつかない。約束は守る。間違いを指摘されれば素直に認め改善に努める。無理な自己正当化をしない。地道な作業をしっかりやる。面倒でもしっかり手間をかける。そういう研究以外の生活における態度もその人のデータの信頼性を裏打ちすると僕は考えているし、なるべくそう振舞うよう心がけている。

また、捏造により導き出された結論は、やがて自分自身に最も不利益をもたらすと僕は信じている。多くの同業者がいる分野/テーマならば、追試が行われることで不正は白日の下に晒され、その人の研究人生は終わってしまうだろうし、追試を行うような同業者がいない場合、誤ったデータ、誤った結論は、いつか必ずその分野にいる自分の首を絞めることになる。嘘を前提とした実験ではまともな結論は得られない。どこかに矛盾が生ずる。そうやって嘘を重ね塗りしていけば、やがて他人が気付く。研究の世界は狭いのだ。

そして、人柄がデータを裏打ちするのと同様に、データは人柄を裏打ちする。データに不正が見つかったならば(たとえ世間に公表される前、ラボ内でだけのことだったとしても)その人の人格まで否定される。


ダメ、絶対。

共著論文放置は罪

前にも言ったが、共著者から回ってきた論文原稿を放置することは誰の益にもならない。


むしろそれによって投稿までの時間がいたずらに長くなることを考えると罪、そう、罪でしかない。数週間レベルならともかく数ヶ月レベルで原稿を返さない共著者なんていうのは、どんなに論文に貢献してようとも、その「放置罪」により悪印象しか残さないと言えよう。この無駄な待ち時間がさえなければ○○の申請に間に合ったのに、△△グループより先に出せたのに…という状況にでもなってしまったら、待たせてしまった人間と、待っていた人間の間に大きな溝ができてしまうだろうことは想像に難くない。


僕も、「可能なことならこいつとこいつを共著者から削除したい」といった放置型共著者やPIに当たったことがある。もし自分で共同研究者を選べる身分になったら、二度とこんな人々と論文を書くかと激しく憤った記憶がある。

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僕は必ず共著論文はその週(遅くても翌週)に返すことにしている。もうこのルールを自分に課して5年を超えるが、ほとんど破ったことはない。最長で10日だと思う。これは三流PDである我ながら良くやっている方だと思うが、僕みたいな底辺PDが出来ることが、何故PI様が出来ない。忙しいのは分かる。でも共著論文へのコメント&投稿の承認というのは、研究者にとってなかなかに重要度が高い仕事であると僕は思う。まして、数時間のまとまった時間が数ヶ月に渡って取れないなどということはまずないだろう。


100歩譲って、もしなかなか時間が取れなかったとしても、自分に非があることは自明なのだからせめて申し訳なさそうにして欲しい。「論文まだですか」と学生に急かされて「忙しいんだ!」と逆切れするPIは本当に絶滅してくれればな、と思う。




論文への返信待ちが4ヶ月を超えた記念に。

バッタ博士 前野ウルド浩太郎

帰って来たバッタ博士 前編 後編

過去にもたびたび言及している前野氏だが、なんとプレジデント誌のオンラインサイトに特集記事が出ていた。

無給PDとしてアフリカで研究する彼が、日本で最も競争的・理想的ポストの1つである京大・白眉プロジェクトに採用されたさいに行われたインタビュー形式の記事である。
彼を知っている人も、知らない人も是非一読してほしい。
僕は、研究者としても、1人の人間としてもこんなにも魅力ある人物を他に知らない。

記事を読んでいただければ分かるが、やはり業績も能力もある彼には、無給PDの間にもポストの打診が来ていたようだ。だが、彼はその誘いを断ったとのこと。「自分でなくても替えが効く」とポストの誘いを断ることが出来るPDなんて彼を置いて他にいないだろう。少なくとも僕には思いつかない。まして無給PDならなおさら。

替えが効かない」というのは本当に研究者として誇りを持っていいことである。自らの知識と技術がどの程度汎用的なものかを正しく判断すること自体に一定の能力が必要であり、それを分かった上で(彼は確実にわかっているだろう)そう断言するには相当の自信がないといけない。温厚で陽気そうな彼が、いかにバッタ研究に自信と自負を持っているかが伺える。

そして「誰かがお前を発見する」といったババ所長の言葉どおり、京大が彼を発見したわけだ。思う存分能力を発揮できる環境を与えられた彼の今後から目が離せない。

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京都に赴任した後の具体的な目標に、彼は「5年で(論文)30本」という具体的な値を挙げている。これは同じ研究者としては信じ難い数字である。プロ野球に喩えるなら、3割5分、50本、130打点くらいではないだろうか。大研究室を主宰する重鎮が、責任著者や共著者として名を連ねる論文の数としてならそんなに難しくない数字であるが、自らが手を動かし、自らが原稿を書かねばならないPDとしてはとんでもない数字である。
しかし、彼がホラ吹いているわけではないことは彼の過去の実績(年間2-3本ペース。これも既に凄い)と記事からほとばしるその情熱を見れば明らかである。


また、僕が特に言及しておきたいのは、エンターテイメントに傾倒するあまり研究をおろそかにしてはいけないという彼の姿勢である。当然のことであるが、やはり「研究者」と名乗るからには「研究」を第一にするべき。つまり「論文」を出し続けなければ自らを「研究者」と名乗る資格なぞないと思う。
逆に、論文さえ出し続けていれば、研究者の本分は果たしているだろう。合間の時間でどんな活動をしようとそれは個人の自由。

「研究がおろそかになっている」という批判する人を黙らせるためにも、是非目標値を達成して欲しい。









・・・そして、5年で30本とはいわないが、年間1本のボーダーはクリアできるようがんばろうと呟く僕でありました。

学部の間は友達作れ 

先日、ラボに学部生の訪問があった。
配属は2年も先のことなのに熱心だなぁと思った程度だったのだが、なんやかやで対応係を命じられてしまった。


訪問してきた彼に聞くところによると、彼はかなり強く研究者を志望しているそうだ。しかし、特に特定の分野やテーマに強い関心を持っているわけではなく、とにかく「研究者になりたい」のだそうだ。研究室訪問の動機も、あわよくば正式配属前から研究を始めることで少しでも研究業界のレースを有利に進めたいという理由らしい。「学振とるためには論文本数が大事なんですよね!」と弁舌を振るう学生に複雑な気持ちを持ってしまった。

ことなかれ主義のボスから正式配属前の研究開始の許可など下りるわけもなかったが、彼は一通りラボを見学して院生やPDの話を聞いて8割の満足と2割の不満を抱いて帰って行った。なお、来週は別のラボを同じように訪問するそうのだとか。

「そりゃ早く始めたら有利かもしれないけど、配属前の学生生活、もっとやるべきことあるよなぁ〜」というのは、僕と彼との会話を隣で聞いていた同僚PDの感想である。同意せざるを得ない。

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業界人なら誰もが知っているだろうが、昨今のアカデミアのポストを巡る競争は熾烈である。確かに、彼が言うとおり少しでも早く研究を始めれば、学振DC申請までに論文が出る可能性は高くなるし、学振DCが取れれば経済的に恵まれた博士課程を過ごせる。

学部の頃から研究室に出入りできれば(そしてラボの規則を遵守し真面目に研究を進めれば)確かに。そのようなメリットはあるだろう。
しかし、アドバンテージを得れるほどの成果を得ようと思ったら、ある程度ラボでの研究に時間を割かなければいけない。
「時間が空いたときに来ます」では、研究はそうそう進展しないし(ましてビギナーなら絶望的だろう)、他の研究室メンバーに迷惑も掛けやすくなる。
まだ講義やバイトを持っている学部生にとって、研究室で研究に費やす時間的コストは相対的に高い。つまり、他の活動に回す時間は大幅に削らざるを得ない。

ここで考えてみて欲しい。大学の学部時代というのは人生で唯一とも言ってもいい「自由」な時期である。古臭い言い回しをすれば、二度と訪れない青春である。何か1つのことに打ち込むことが出来る最後のチャンスである。体育会系クラブでもサークルでもいい、、放浪旅のような若いときならではの活動を行うもよし。また、一生涯の友人を作るまたとない期間でもある。その時間を窓もない部屋でPCRをかけたり大腸菌をつついたりする作業に使っていいのだろうか。

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身の回りを見渡していただければ思い当たると思うが、現在一線でバリバリやっているPIやPDの中に「正式配属前から研究室でバリバリやっていました」という人物はほとんどいない。逆に、学生時代は体育会クラブやサークルに打ち込んでたとか、休みになれば放浪旅に出ていたとか、ひたすら悪友とバカやってたとか、そういったエピソードを話せる人物はすぐに幾人も思い当たるだろう。

研究には山もあれば谷もある。絶好調に進展することもあればやれどもやれども停滞することもある。ベンチを離れても、指導教官との人間関係に悩み、不安定な将来に苛まれ、不安定になりがちな精神状態と向き合っていかねばならない。

個人的にバイアスした意見かもしれないが、いざ辛い状況に陥ったとき、豊かな経験を有している人間は強い。また、良き友人や恋人を持っている人間も強い。

もし、学部の自由な期間にこれらを手に入れることが出来たならば、それは1年や2年先行して研究室に入っていることなどより、(研究職就職レースに限定したとしてもなお)アドバンテージがあるのではないだろうか?

こうはなりたくない PI チェックリスト

□ 院生・PDに物事を頼むときは命令口調だ

□ 自分の行いは頻繁に棚にあげる

□ ラボのOB/OG が遊びに来ることなんてない

□ 面と向かって院生やPDが自分に意見することはない

□ 自分の経験談はみんな聞きたがるだろう

□ 自分が一次会で帰ると、二次会は盛り上がるようだ

□ 院生やPDが参加する学会は自分が決める 話す内容も自分が決める

□ 院生やPDが自発的に学会に参加するなんてもってのほか

□ 「いつでもディスカッションに来い」と言っても一向に誰も来ない

□ 自分に非があっても相手が目下の院生・PDならきちんと謝罪をしない

□ 院生部屋を訪れると、とたんに静かになる

□ ラボに来なくなる院生やPDが多い

□ 鬱になる方が悪い、と思う

□ サイエンスにサティスファイしていないからだ

□ 学生を見ていると「そんなことも知らないのか」と自分とのレベルの違いを感じる

□ 院生・PDの人柄により、態度に差を付けるのは仕方がない

□ 「褒めて伸ばす」などど甘ったれた幻である

□ 学生の論文添削をするのが嫌で嫌でたまらない

□ 論文を「見てやる」立場なんだから、しばらく放置したって問題ない

□ というか俺にこのレベルの原稿見せる院生が悪いんだバカ

□ 俺が忘れてると思ったら、再確認しろよバカ

□ リマインダーとか言って急かすな、うぜぇ

□ 学生は俺が指示したことだけやればいいと思う

□ 「先生がそうしろっていいました」だ?自分でも考えろバカ

□ 俺は、こうしろって言っただろうが!勝手に自分で決めるなバカ


□ 指導してやってるんだから、少々のことには目をつぶれ

□ あ?不満あんのか、コラ

権威主義的研究室

今年の分子生物学会では「偉い先生の顔に落書きをする」という企画が行われるようだ。

一見、安っぽいバラエティ番組かのような企画だが、上記リンクにも書いてある通り、日本の多くの研究室は封建的で研究室内のヒエラルキーがはっきりしている。
PIが白といえば、なんでも白。黒といえば黒。
この強権的権威主義とも言えるものこそが、近年急速にクローズアップされてきている捏造問題、アカハラ問題の背景にあることは疑いない。

以前も書いたが、研究室におけるPIの権力は絶対的なのだ。
学位を握られている院生、職を握られているPD、彼らの命運はPIの手の内にあると言っても過言ではない。

願わくば、PIと院生・PDがより対等に、よりフランクにコミュニケートできるように、との思いで発案されたというこの企画が、少しでも現況の改善に役立つことを願ってやまない。




もっとも、この企画を見て、自らを省みることができるようなPIなら、そもそも自身の研究室で権勢にかまけて踏ん反り返るようなことにはなっていないだろうが。